あいどるまいどる

二次元アイドルと三次元アイドルにぷかぷかする

拝啓、一年前、空の上で死んだ私へ。

 

 一年を通して、本当の意味で「なんでもない日」という日はない。私にとってなんでもない日である日は誰かにとっての記念日や誕生日であり、逆もまた然りだ。

 

 1月27日。

 この日は嵐のファンである私が死んで、嵐のファンである私が生まれた日だ。

 

 

 私は元々記憶力がいい方ではない。言おうとしていたことはものの数秒で忘れ、そのまま思い出せないこともある。思い出せたとしても、人の気持ちは流動的であることから、「その時」思っていたことが100%反映されたものではない。だからこそ、なるべく「その時」思っていたことを何らかの形で残しておこうと書き留めるのだが、……あの日のことは、本当に鮮明に覚えている。使い古された言い方を借りるなら、昨日のことのように思い出せる。

 

 1月27日。私は羽田空港の土産物屋にいた。東京での旅の終わりにお土産を選んでいる最中だった。お土産を買ってくるという友達を待っている間、何気なくTwitterを開いた。

 私がその時に眺めていたのは嵐のファンで構成されたTLではなく、学生時代からの友達や先輩後輩、別の趣味で繋がった人達が混ざっている、所謂「一般的な」情報の得られるTLだった。そこでは各々が自分の好きなことについて呟き、たまに大きなニュース等があると大勢が反応する。そんなTLで、文言が目に飛び込んできた。

 

 「嵐?!」

 

 嵐のファンでない人達もみんなが一斉に呟いている。それだけで何かただならぬ事があったことを察した。そしてすぐ、詳細を知ることになった。

 

 嵐が、2020年末で、活動休止。

 

 文字にすれば単純で明快な事実だ。だけどあの瞬間、まったく理解が追いつかなかった。震えながら近くの壁にもたれかかったが、そうでもしなければ膝から崩れ落ちてしまいそうだった。

 私はこの一ヶ月前、嵐と嵐が紡ぐ物語性について語ったばかりだった。そこでは「物語(=嵐)には終わりがある」と語っており、嵐は永遠でないことを提言していた。それなのに、いざその瞬間が訪れた日、事実を理解出来なかった。何が終わりがある、だ。そう宣っておきながら、どこかで永続的であることをやはり夢見ていた。

 

 取り急ぎ動画とテキストでメッセージを確認する。いつもにこにこと笑いながらファンに向けてメッセージを伝えてくれる彼らは、その日はピリッと張りつめたような表情で、言葉を選びながら想いを伝えてくれている。それをどこか夢を見ているような気持ちで確認していた。内容があまり入ってこず、ぐちゃぐちゃとした気持ちが、ぐるぐると頭の中で回っていた。

 

 なんで。

 どうして。

 

 多くの人もそうであるように、私の中にも、今目の前にいる彼らとは別に「嵐」の存在がある。この「嵐」という存在は彼らの元から離れた存在であるからこそ、美化され、自分だけの存在として心の中にいる。その時の私は、まさに今目の前にいる彼らがいるというのに、「嵐」に泣き縋りたい気持ちでいっぱいだった。

 

 たすけて。

 おねがい。

 嵐から言葉がほしい。

 

 20年も歩んできた彼らの年月の四分の一ほど、私が彼らを追っていた年月は数字にしてしまえばそんなものだ。

 しかし私は、私が思っていた以上に「嵐」のことが好きだったらしい。それを自覚出来ていなかったことも、そしてこのタイミングで自覚することも、我ながら滑稽に思えた。なんだ、私めちゃくちゃ嵐が好きだったんだな。今気づくのかそれを。

 

 あの瞬間、泣き喚いていたらまた違った未来を迎えていたのかもしれない。

 だが私はそうしなかった。空港のど真ん中で泣き喚くわけにはいかないという理性が働き、そしてその理性は私の感情を押し殺した。閉め忘れた蛇口から漏れる水のようにぽろぽろと数滴、涙がこぼれただけだった。ちゃんと泣くことも出来ないまま、飛行機に乗った。家に帰るという現実が待っていたから。

 

 ここで、敢えて過激な表現を使う。

 あの日、一度「私」は空の上で死んだ。

 

 着席して、離陸する。いつもそうするように、イヤホンをつけて音楽を聴き始めた。何も考えないままに選んだのは「きみのうた」。今思い返しても「そんなに死にたいのかよ」と言いたくなるチョイスだったが、本能的にあの曲を選んでいた。甘やかさと爽やかさをもった嵐の声が、優しくて綺麗な歌詞を紡ぐのを聴いて、また蛇口の栓が少し緩んだ。流れ落ちた涙が心臓へと染み込んでいく、穏やかで痛々しいスパイラル。その後も大好きな嵐の曲を聴きながら空の上にいた。

 

 今ここで死んだら、私はしあわせなままでいられるかもしれない。

 

 17時に第一報を出した嵐は、20時に記者会見をする、というのを離陸前に聞いた。嵐が記者会見をやっている時、私はちょうど空の上。地上に降りた時には、きっと全てが終わっている。それが分かった時、もう地上に降りたくない、ずっと空の上にいたいと願った。

 

 動画やテキストでは、嵐は自分たちの想いをまっすぐ伝えながらも、ファンのことを気遣うように努めていてくれていた。出来る限り痛みを和らげてくれようという配慮だ。そんな配慮があっても、私はダメージを大きく受けた。

 しかし記者会見では、様々な質問が飛び交い、恐らく傷口は剥き出しにされる。記者会見とはそういうものだ、と思っていた。そんな場面を見てまた死にたくなるくらい苦しい思いをするなら、もういっそこのまま、「嵐がすきだ」という気持ちをもったまま死んだ方がまだ楽ではないかと思い詰めた。結局はその選択をせず、今こうしてその時のことを書いている私がいるわけだが、あれは自己愛を突き詰めた一つの終着点だったように思う。自分を守るために自分を殺す。我ながら馬鹿みたいだと思うが、あの時は本気でそう考えていたというのだから、感情の暴走というのは恐ろしいものだ。思い詰め、人生で一番長い二時間を機内で過ごして、私は地上へと降り立った。

 

 そこからの数時間は、本当に嵐のようだった。

 手荷物を受け取るのもそこそこに見た、嵐の記者会見の模様は私の知っている「記者会見」とは雲泥の差だった。これ本当に、活動休止の記者会見で合ってるか?何か賞をいただいたとか、そういう類のものではなく?彼らが記者会見で発した言葉の数々、表情や姿勢、笑顔。「記者会見」の場において、「笑顔」が見れるなんて、数時間前の私にはまるで予想が出来なかった。そこには私の大好きだった「嵐」がいて、でもその「嵐」は、私の大好きだった「嵐」ともまた違う彼らだった。

 

 私、この人たちのことめちゃくちゃ好きだ。

 嵐のことが、大好きだ。

 

 何度も話し合いを重ね、一つの結論を出したという彼ら。ファンに感謝と誠意を伝える期間を設けるために今の発表に踏み切ったという彼ら。デビュー会見で語った目標をまだ叶えていないからその目標を諦めないという彼ら。……終始落ち着いた態度で説明し、投げかけられた質問に真摯に答え、時折冗談や断言を交えながらそこに立つ彼らを見て、飛び立つ前とは別の感情で震えた。

 あの記者会見は、嵐が今まで歩んできた成果がはっきりと出ていたと思う。彼らは親しみやすく、穏やかな「優等生」だという印象で語られやすい。まさしく、その印象でしかなかった。親しみやすさというのはイコール隙があるからというのもあるが、その「隙」があることさえ、隙を失くす要因になっているのだ。一度「隙」に付け入ろうと、嵐の穏やかさに甘んじようとすれば、それは違うときっぱりと線引きされる。パブリックに持たれるイメージを、嵐は強みとして持っていた。それを取り繕うまでもなくやり遂げられるのは、彼らが「仲良し」だからではない。「仲良くあろう」とした努力と遠慮と、そして尊敬と肯定をし続けた結果だ。嵐はずっと、嵐であろうとしている。その姿を見て、「好きだ」という感情以外、なくなった。なんでもどうしても、先に何かを考えるまでもなく、「好きだ」と思う。5年前に彼らを好きになった時と同じように、私は彼らを好きになった。嵐のファンである私が生まれた。

 

 

 発表後のこの一年、本当にいろいろなことがあった。発表があってから私が「こんなことしてくれたらいいな」と思っていたことも、まるでそんなこと考えてもいなかったようなことも、とにかくたくさんだ。あの発表から二、三年くらい経ったんじゃないかというほどの供給を受けたように思うが、今日で一年だ。非常に濃くて、あっという間の一年。年月を振り返る時には大体そういう感覚になるが、発表から一年経ってゆっくりと振り返っている自分がいることに、少し不思議な感覚を覚えている。

 

 嵐が好きだ。五年前に抱いたこの感情は紛れもなく本物だと言えるのだが、でも五年前の私より今の私の方が、嵐のことを好きなんじゃないかと思っている。

 それはもちろん、彼らを知って、追っている年月が長くなってきたからというのも要因としてあるのだが、過去を深堀りしたからこそではなく、今の彼らを見て、「好きだ」と日々実感しているからではないかと思う。日に日に、私は嵐を好きな理由を見つけていく。好きになっていく。この気持ちを伝えるべく、好きだよ、ありがとうと言い続けているわけだが、そのお返しのように嵐はまた大きなプレゼントをくれる。そんな彼らのことをまた、好きになる。

 これからの一年、そしてその先、私はまたどれだけ彼らのことを好きになっていくのだろうか。

 

 

 

 拝啓、一年前、空の上で死んだ私へ。

 

 今ものすごくつらいよな。死にたくなるくらい苦しくて、絶望しきってるよね。わかるよ。

 

 でも、「彼らのことなんて好きになるんじゃなかった」って思わなかったよね。うん。そこはものすごく偉いと思う。あの時拒絶してしまえば、今の私はなかった。つらくても、嵐を好きだという気持ちを否定しないでくれてありがとう。

 今の私はね、あなたが嵐を好きでいてくれたから、嵐を好きになれたよ。

 

 嵐を好きにさせてくれて、ありがとう。