あいどるまいどる

二次元アイドルと三次元アイドルにぷかぷかする

我々はアンジュルムの読者である

 

そして幕開け第二章

 

 このワンフレーズに反応できる人はどれほどいるのだろうか。

 

 「そして幕開け第二章」と言われた次の瞬間にラップバトルを始められるのが嵐のオタクだ。

 この「第二章」という単語で端的に「嵐は物語である」という定義と「今までは第一章だった」という提示と「これから新たな物語が始まる」という提唱を行っているのが櫻井翔くんが書くラップ詞の醍醐味であり、醍醐味に気づいた時には嵐という物語の読者としての自我が芽生えるわけだが、つい二週間ほど前に、「第二章の幕開け」を自らの口で宣言したアイドルグループがある。

 それが、アンジュルムである。 

 

 

 6月18日の武道館公演を以て、アンジュルム前リーダー、あやちょこと和田彩花は卒業した。

 ジャニーズにおける「脱退」とは意味合いが異なり、女性アイドルグループには「卒業」制度がある。花開く前にアイドルの道へ踏み入れた彼女たちがアイドルの花道を走り抜け、そしてその先にさらなる華々しい未来があることを願い、「卒業」と位置付けているのである。

 私はアンジュルムと出会うまで「卒業」制度に立ち会ったことがなかった。まあ、そりゃそうだ。初めての三次元の推しがジャニーズで、そんでもって嵐である。「嵐なので」で全部が説明つけられるこの事の偉大さについてはもはや説明するまでもないが、故に、「推していたアイドルが卒業していく姿を見る」という現象にまるで耐性が無かった。

 

 あやちょの卒業の日、私は泣いた。卒業します、と発表があってから1年以上も時間があったにもかかわらず。推しではないんでしょ?そういうことではない。違うわ!お黙りください!!アンジュルムを語るにあたって、彼女は心の臓だった。推しだ推しじゃないとかそういうクソどうでもいい議論はこの場には必要ない。

 要は、「和田彩花のいないアンジュルムを許容できるか」ということなのだ。

 

 結論から言うと、許容できた。

 許容、という日本語に「お前何様だよ」とクレームがつくであろうことを想定して先に言っておくが、「和田彩花のいないアンジュルムを許せるか」ということではない。「和田彩花のいないアンジュルムを応援する自分を許せるか」、それを自分の胸に問いかけ続けたのだ。

 あやちょのいないアンジュルムを応援することで、彼女がいなくてもいいという裏付けにはならないか。いつしか、あやちょのいたアンジュルムを忘れていくのではないか。その自分に失望しやしないか。……そこまで言うか?と思われるかもしれないが、「私の好きだったアンジュルム」を否定しない為には、そこまで考えておく必要があった。これからのアンジュルムを愛せるかどうかは分からないが、今までのアンジュルムを愛していたという事実を嘘にしたくない。これも全部ひっくるめて単なるエゴな自問自答であるが、問いかけ続ける私に、あやちょは言葉を残してくれた。

 

 

「私がいたアンジュルムは、いわば第一章です。第一章、物語の始めですよ?」

「これから第二章が始まりますので」

 

 

 ……第二章かァ~~~

 

 

 女性アイドルグループには「卒業」制度があり、メンバーが入れ替われど「グループ」としては存在し続ける…というのが定石で、そういった意味ではここからここまでを第一章、ここからを第二章、と定義づけることは出来るかもしれないけれど、それはあくまで外部からの定義づけで、形式的なものでしかない。

 しかしあやちょは自らの口で「第一章の終わり」を提示し、「第二章の始まり」を宣言した。内部から物語を作り、それを外部にも分かる形で提唱したのである。これが、本当に重要で重大で、そして救いになった。

 

 私たちはアイドルを応援するにあたって彼ら/彼女らの生き様を消費する立場であるわけだが、一口に「消費者」といっても様々な形があると思う。歌が好きな人。ダンスが好きな人。演技が好きな人。言葉が好きな人。みんな違って、みんないい。

 その中で、嵐の櫻井翔くんとアンジュルム和田彩花さんは自分たちを「物語」と形容することで、消費者であるファンを「読者」と位置づけ、自分たちの歩み、発信、生き様全てを抽象化し、それでいて具体的な形として残していけるようにしたのだ。

 もちろん、この位置づけもあくまで一面であり、「読者」になることを強要しているわけではない。だが「読者」になることを、彼ら/彼女らは許容してくれている。あやちょの言葉を聞き、そして他のメンバーが「第二章」を歩いていくと口々に言ってくれている姿を見て、私は「和田彩花のいないアンジュルムを応援する私」を許容しようと思った。アンジュルムの言う「物語」の読者に、私はなりたいと思ったのだ。

 

 

 さて先日、6月30日に福岡ヤフオクドームで音楽フェスが開催された。「FUKUOKA MUSIC FES」、ヤフオクドーム初の音楽フェスとのことだ。その音楽フェスに、アンジュルムは出演した。

 発表を見た時、目を疑った。ヤフオクドームって、私の知ってるヤフオクドームか?確か4月終わりに行ったよ。なんでかって?嵐のグッズ買うためにだよ!そこにアンジュルム来るのか?マジで言ってる?

 

 私が初めてアンジュルムを見たのはハロコンだった。その時はハロプロといえば娘。という認識が強く、まだ彼女たちを「個」として認識していなかった。

 それから福岡の「陸の孤島」の名高いショッピングモールのイベント会場でリリースイベントでアンジュルムを見た。歌が上手くてかわいくて、ジャニーズみたいな顔の子がいた(驚くべきことに、ジャニーズではない)。パフォーマンスが熱くてめちゃくちゃ楽しかった。 

 ライブハウスやホール、様々な場所でアンジュルムを見てきた。どこに立ってもアンジュルムは最高のパフォーマンスを見せてくれたが、やはり「大きなステージに立ってほしい」という思いが強かった。彼女たちも同じような思いを口にすることがあり、次第に近くで彼女たちを見ることよりも、大きなステージに立つアンジュルムを応援したいと思うようになっていた。

 

 私の幻覚でも幻聴でもなく、アンジュルムは6月30日、ヤフオクドームに来た。ショッピングモールイベント会場じゃない、ライブハウスじゃない、ホールじゃない。ドーム。「ドームに立つアンジュルム見たいよ~~!!!エ~~~ン!!!!!」聞き分けのないこどものようにしばしば泣いていたが、実現してしまった。「ドームに立つアンジュルム見れるよ~~~エ~~~ン!!!!!」と泣いた。聞き分けが無さすぎる。

 

 初の試みの音楽フェスで、自身初のドーム公演で、トップバッターを任されて、そしてあやちょ卒業後初めてパフォーマンスをするアンジュルム。不安はなかった。期待しかしてなかった。どんなところでも彼女たちは「今」最高のパフォーマンスを見せてくれてきていた。「第二章」を幕開けをこの目で見る。

 

 

 大器晩成。

 

 11人のアンジュルムは、堂々としていた。年端のいかぬ少女達はそこにはいない。自ら歩き、戦い、ステージに立つことを選んだ乙女達がそこにいた。

 

 次々続々。

 

 立っている。

 嵐が依然として第二章だと不敵に笑ったあのステージに、第二章を迎えたアンジュルムが立っている。

 

 赤いイヤホン。

 

 ドームのステージで、恐らくファン以外には分からないであろう、そして12人でしかやっていないアルバム曲を、11人のアンジュルムは何の恐れも戸惑いもなく、ただ強さを持って歌い上げている。

 

 マナーモード。

 

 彼女たちはあまりに女の子だ。儚く、可愛らしく、美しく、だけれど強い。しかしながら、美しく、可愛らしく、儚い。大多数の女の子と変わらぬ女の子であるのに、女の子のアンジュルムはステージに立つ。

 

 泣けないぜ…共感詐欺。

 

 アンジュルムは自己を持つ。

 アンジュルムは自我を持つ。

 アンジュルムには自分がある。

 アンジュルムには自信がある。

 

 46億年LOVE。

 

 その姿は、紛うことなきアイドル。

 愛を与え、愛に満ちて、愛を伝える、愛のあるアイドル。

 

 

 「第二章」の幕開けは瞬く間に終わった。 

 渇望した、「ドームに立つアンジュルム」の姿は、想像よりもずっとずっと夢のようで、現実じみていた。

 

 大きい会場だった、と彼女たちは言った。いつかこんな大きい会場を埋めてみたい、と彼女たちは言った。

 なんなんだ、アンジュルムは。最高じゃないか。「第二章」を迎えたアンジュルムは今までのハングリー精神を失っていないどころか、さらに前を向いている。終わらない。彼女たちの「物語」は、始まったばっかりだったのかもしれない。

 

 

いま居合わせる 君幸せ

この歴史を後世に語れるだろう?

 

 一緒に語り継いでいきたい。

 彼ら/彼女らの「物語」を。